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時代と共に変化する病気、治療

本来、医療者が治療を目的に行なうことを医療といいます。
しかし近年になって「病気」、「治療」という概念も変わってきました。

戦争時における医療は外科的処置が中心であったし、それ以前は外傷的な処置が中心であったでしょう。
戦後、社会が安定すると共に科学も進歩し、医学の分野もかなり発展してきたのは確かです。

また「病気」「医療」についての考えも変化してきました。
社会の安定とは何を意味するのか、民主主義が行き渡り、個人の権利意識も高くなってきた20世紀末になり、それまであまりみられなかった病状や症状が多く発生してきました。

引きこもりやうつなどの自己防衛型の疾患が増え、それに伴って社会も高度成長から安定成長に落ち付いてきました。

高度成長を期待しても未来を担う若者達がそれを望んでいない、それは親世代を子供の時から見てくる中で、高度成長には夢も期待ももてないことを知ったのです。

それを果たして社会病といっていいのでしょうか。

相反する「病気」の定義

「病気」と決めつけるのは経済なのか、政治なのか、医療なのか。
けっして彼ら若者達は自分達のことを病人とは思っていない。
むしろ高度成長期にあった経済、政治、教育、医療を支えていた人達こそが病人であり、「自分を見失っていたからだ」と考えているのです。

高度成長期にそれぞれの分野でリーダーをしていた者達から見た時の現代の若者、つまり病人に対して、どんな処置を行なえばいいと考えているのでしょうか。
そして、それを医療と捉えていいのでしょうか。
間違いなく現代はそんな考え方の上に成り立っています。

「病人」と言われる方は自分達のことを病人とは自覚しておらず、「病人」と言っている方の人間こそ病人だと思っている現代、「医療」はどうあるべきものなのか、今考えるべきはこの問題です。
これまで言われてきた枠内での捉え方ではすまされないところにきています。
一般的な「医療」という考え方はこれまでの捉え方であり、これからの時代においての捉え方がまだ成熟していません。

そんな中で私が「医療者として本来何を行なうのか」というテーマに対して、どう捉えているのか。

相手の意志を尊重した医療

「病気」の捉え方も「治療」に対する考え方も、時代によって国によって地域によって宗教によって人種や経済力によってもそれぞれ違います。
そんな中で、医療者として自認しているのであれば、自分に求めている相手に対して、自分が納得できることをすることです。

医療者はけっして奴隷ではないし、意志ももっている。
ならば、自分が「よし!」と思えるように対応することです。
しかし、それには能力や技術や人柄も問われます。
それも充分に受け止めた上で、行なうことです。

にもかかわらず、医療者であれば何人もまずはコミュニケーションを大切にすべきであり、相手の意志を尊重し、相手に寄り添うことです。
知識や技術はその後で必要になる場合もあるという立場をとることです。

また、読脳を生かし、必要な時や場合に応じて読脳し、本人も自覚していない事柄や未来のことなども含め、対応していくことと、考えているのです。