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1話 自分が思っていたのとは違う医療の現場

人を助けたいとの想いから4年制大学に入学したが

「人を助けたい、病気・症状で困っている人を良くしてあげたい」
と夢を抱いて鍼灸師になった若者がいます。

札本卓(東京都/大阪府出身)さんは、父親が柔整師だったことから、子どもの頃から人をケアすることに関心がありました。
親の仕事を継ぐという気持は特にありませんでしたが、西洋医学では良くならない病気・症状で悩む人が数多くいることを子ども心に感じていたことが鍼灸の道を目指すきっかけとなりました。
生活の安定のためには、鍼灸だけでなく柔整の資格も併せて取る人が多い中、「食べるために治療家を目指すのではない」と、あえて鍼灸だけを取ることにしました。
学校を選ぶにあたっては、きちんとした勉強をしたいと、カリキュラムや担当教員など入念な下調べをしました。
そして最終的に選んだのは4年制大学の鍼灸学科でした。

「でも、結果的には、4年間勉強してきた内容だけでは実際の患者さんには何の役にも立ちませんでした。
実際に目にした臨床の現場は僕が思っていたものとは全く違っていたのです。

結果が出ない鍼灸の臨床

僕の通っていた大学では、付属の病院、鍼灸の治療院などが併設されていて、臨床もそこで行われていました。
入学してから最初の2年間は現場に出ることはほとんどない机上の勉強だけでしたが、僕は早く現場に出たいということで1年生の夏休み頃から3、4年生に混じって鍼灸の治療室に入らせてもらいました。
大学の長期休暇の間もほとんど休みなく毎日、臨床見学に通いました。

でも、現場は自分が思っていた臨床とは違っていました。

僕が考えていた臨床とは、『治療すればすぐにその場で変化が分かる』というものでした。
ところが、実際の臨床での治療は『長期間ケアをしながら少しずつ良くなっていく』という考え方がベースで、その場で良くなった臨床というのはほとんど見たことがありませんでした。
それでは『治療したものが結果として効果があったのかどうか確認できないではないか? 』と疑問を抱きました。
初めのうちは、自分が勉強不足のため現場では役に立たないのかもしれない、と考えましたが、ある程度年齢を重ねた治療経験の長いベテランの先生の治療をみてもそう思わざるを得ませんでした。
『施術をすればすぐに効果が出る』という、自分の思う理想の治療結果が出せる臨床には出会いませんでした。

偶然かもしれませんが僕の周りには治療をしなくても良くなる人も多くいたので、
放っておいても勝手に治る人に治療する意味があるのだろうか?
何もしなくても良くなる人に『治療して良くなった』と言う意味があるのだろうか?
そもそも、治療して良くなったのか、自然に良くなったのか区別はできるのだろうか?
と、心の中では疑問がどんどん大きくなっていきました。

「国家試験のため」の勉強に疑問、伊東聖鎬のセミナーに出会う

一方、学校での授業は、ただ教科書を読んで勉強をして国家試験に備える、というものばかりでした。
自分が本当にしたいことは『人の役に立つ』ことだったので、『学校で教わることだけをやっていては4年間が無駄になる』と考えるようになりました。

学校以外のいろいろなセミナーを受講したり病院や治療院の臨床現場を見学したりと、積極的に動き回りました。
でも、これなら役立つと思えるようなものには出会えませんでした。

そんな時に伊東聖鎬先生のセミナーに出会ったのです。
伊東先生のYouTubeを見ると、良くなるまで半年から一年はかかると学校で教わるような症例でも、その場で結果が出ていました。そんな動画を見れば見るほどに学校での勉強に価値を見出せなくなっていきました」

しかし、最初は疑っていたそうです。

「良い例だけをあげているのだろうと、最初は思っていました。
ところが、その人の体に触れないのに、あることを考えたり聞いたり、または他の人の体に触れて、その人の体に変化が起きるのをYouTubeで見たときには、人間の体はどうなっているのだろうと思いました。
それはすべて、脳の情報を読み出して、その通りに行なって起きた現象である、ということを聞いた時は、自分のこれまでの知識ではとても通用しないと思いました。
症例ごとにいろんな治療パターンを学んできましたが、それは数を打てば当たって治るような方法論ばかりだったからです。
また、医療の分野に限らず、人と関わる仕事をするということは学校で勉強したことや机上の勉強だけではいつか行き詰まるだろうと思いました。
伊東先生を知ったことは、僕の医療との関わり方において大きな転機になりました。

治療の技術というのは本質ではない

そして、大学4年の時、初めて伊東先生のセミナーに参加しました。
伊東先生から参加した目的を聞かれ『学校で勉強しているものだけでは物足りないので、治せる治療技術を学びたいです』と言うと、伊東先生は『治療技術を求めているのなら、僕は君の役に立つことができないよ』と答えられました。

『えっ、どういう意味だろう?』
その時は、何を言われたのか、その言葉の意味がまったく理解できませんでした。
伊東先生がやっていることを傍から見れば治療としか思えないし、伊東先生が行なっている治療の技術を身に付けたいと思って参加したのに……と悩みました。
これは他のセミナーや勉強会とは全く違うなと感じながら、その言葉の意味を考えるために購入したDVDを家に帰ってから何回も見返し、数か月ずっと考えましたが分かりませんでした」

大学年生で伊東氏に出会ったことをきっかけに、札本さんは「治療、医療とは何か? 医療において本当に人の役に立つとはどういうことか?」と深く考えるようになりました。

病気や症状を良くすることは、泥棒と同じ

「伊東先生は、病気や症状を良くすることは泥棒と同じだ、と表現されたことがありましたが、 当時はその言葉の意味が理解できずにいました 。
そういう自分の考えが変わり始めたのは大学卒業後、実際に現場で患者さんの臨床を重ねるようになってからです。
臨床の中で病気や症状を取り除くことが必ずしも患者さんにとって良いとは言い切れないと思う事例が少しずつ出てきたからでした。

患者さんからいろいろ話を聞くと、仕事や家庭の事情で症状を持っていた方が都合がよい。
逆にそれが無いと都合が悪い。
むしろ、病気・症状があることでうまくコントロールできているのではないか、という感じを受ける人を何人も診ました。
体の問題以外に仕事、家庭、子どもの問題などを抱えている人ほど病気・症状はすぐに良くならない傾向があるように思いました。

仮に症状を取り除いたとして、かえってその患者が不都合な状況に陥ったとしたら、自分が治療を行なったことは正しかったのかどうか、と悩むこともありました。
治療をすることに罪悪感すら覚えるようになりました。

だんだんと伊東先生の言葉の意味が分かってきて、その頃には僕は医療者であることを辞めようと決めていました」

「人の役に立ちたい」と志して医療者になった札本さんは、医療者を辞めて伊東先生の下でスタッフとして働きながら実践の学びをスタートしました。
そして、「本当に人の役に立つとはどういうことなのか?」と模索し、「伊東先生のように人生経験を積み、人や社会を知りたい」と、人生修行の旅に出ようと考えるようになりました。