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「人の役に立つ」という事の本質的な意味

子供の頃、両親から「人の役に立つ人間になりなさい」と言われた人は多いでしょう。
小学校でも担任から「人の役に立つ人間になりなさい」と言うのを聞いた人は多いでしょう。

では、高校あるいは大学で同じようなことを聞かされたでしょうか。
中には、中学校でも聞かされたという人もいるでしょうね。
しかし、さすがに高校生になった人間を相手には言わなくなったのではないでしょうか。
大学生に言ったところで「自分の勝手でしょう!」と言い返されるのがおちだから言う人もいないでしょう。

親は、小学校や中学校の先生は、「人の役に立つ」ということがどういうことなのか分かっているのでしょうか。
高校、大学の先生ともなれば「そんなこと分かるわけないでしょう」と言うことになっているでしょうね。
国で「人の役に立つ」ということがどういうことなのかを決めてあれば、それを教える、それを習う、ということで「人に役に立つ」という言葉を耳にすることがあるのは特におかしいこととは思わないが、決まってないのです。

それなのに、親や小学、中学校でそれを言うのはどういうことなのでしょう。
憧れなのでしょうか。
それともノスタルジーなのでしょうか。
それとも希望、夢、期待なのでしょうか。
全くそれには何の意味もありません。

「人の役に立つ」とは、何を言っているのでしょう。

泥棒の役に立つということでしょうか。
人殺しの手伝いをするという勧めなのでしょうか。

人の役に立つと思ってやったことが…。

年配者が重そうな荷物を持っているのを見て手伝ってあげようと思う気持ちがあっても、もしあれが誰かの物を盗んできたものだとしたら……。

前に歩いている人のカバンから物が落ちた。
とっさに「あっ! これ落ちましたよ!」と拾って手渡すこともあります。
そして、それが人を殺傷することの目的で持ち歩いている刃物だったりする可能性もあるのです。

何が役に立つことなのか、多分親や小学、中学ではこのような時、親切に対応するよう指導するのではないのでしょうか。
しかし現実は全く正反対です。

海外旅行に出かけると、まず空港から気を付けなければなりません。
他人の荷物を持ってあげることも、他人に荷物を持ってもらうことも、後々何が起こるかも分からないという緊張感を求められます。
渡航先の空港ならさらにその緊張は高まります。
空港を出れば、さらに緊張感が必要です。
勿論国によって違います。
しかし、そんな緊張を求められる国はたくさんあります。
それと同じようなことが国内でも起ころうとしています。

戦後教育の中には「人には親切に」というのがあったでしょう。
れから70年以上が経った現在、世界はグローバルに、犯罪もグローバルになってきています。
性善説が通用しないグローバル化。
自分の知らないことが知らない内に進行し、いつの間にか巻き込まれている。
そんなことが絶対無いと言えなくなったのです。
こんな話はもっとも分かりやすいと思います。

借金を抱えた末に「人の役に立てない」

これを病気、症状に置き替えて考えてみると、「辛い、苦しい、痛い、何とかして欲しい」と求めてきた人に対して、なんとか役に立ちたいと思うのは人情です。
誰もがそう思うでしょう。
しかし、役に立つことを職業として行なっている人というのが存在します。
それが「医療」という世界です。
役に立つ技術を学ぶのです。
その為に大学に専門学校に通います。
それでは充分じゃないということで、さらに様々なセミナーを受講します。それも、役に立ちたいという目的の下でです。

しかし、時代が変わってきました。
人の役に立つことで自分の生活が成り立つ。
いつの間にか本末転倒なことが起こりだしたのです。

それは今から数十年以上前のことです。
今ではすっかり、人の役に立つことを目的に、大学に専門学校に、さらにセミナーを受講します。
役に立って欲しい側の人は、当然に役に立ってくれるものと信じて、遠くから朝早くからやってくるのです。
しかし、役に立つ側は役に立つ以前にすでに借金を抱えています。
どうしても返済していかなければならないのです。
手を抜くわけにはいかないのです。
その為、数をこなさなければならないのです。

身に付けた技術は、短時間で早く終わらせることのできるものでした。
何を求めているのか、何を訴えているのかも、充分には理解していません。
本末転倒ですから「人の話しが聞ける」「訴えてることが理解できる」「その人の人生が見える」「家族のことも経済事情も分かっている」そんな人が大学に、専門学校に通い、さらにセミナーで技術を学んでいるわけはないのです。
すでに「人の役に立つ」ということをプロとしてやっていこうと開業と同時に何千万円、何億円と借金してまで待ち構えているのです。
そして、そんな大学、専門学校、セミナーで教えるものは、求めてやってくる人に何の役にも立たないものなのです。

そんなシステムを国が作り、国や大学、マスコミを使ってそんな大学、専門学校の価値を声高に叫び、国民を煽動し、けっして人の役に立つ技術ももたず、人の気持ちも理解できず、銀行から借り入れた借金の返済の為に、求めている人をただ頭数だけをこなすというシステムはとっくの昔に完成しているのです。
そんな裏のことを知らず、苦しみや痛みで七転八倒している病気・症状を持っている多くの患者は騙されるだけの存在です。
どこに「人の役に立つ」があるのでしょう。

自分の事が分かない人が、他人の事が分かるのか

医療の中に「人の役に立つ」部分があるのでしょう。
本当の意味で、患者も本当は何を求めればいいのか、何をどうすればいいのか、分からないのです。
勿論、そんな医療者が知っているわけもありません。
国と医療者との関係は「できている関係」です。
そんな所に行く意味があるでしょうか。
本当に自分のことを大切に考えているのなら、また家族の誰かがそんな状態でいるのなら、そんな「できている関係」の人達を相手にしていいのでしょうか。

誰も人のことは分からないのです。
「分かってくれる」と思わされているだけです。
「良くしてくれる」と思わされているだけです。
彼らは何一つ分かってはいません。
十把一絡じっぱひとからげなのです。
そんな国が決めたことに従って、決まったことを決まったようにこなすだけなのです。
人の心も人生も家族のことも分かっているわけではないのです。
「人の役に立つ」、そんなこと誰が出来るというのですか。
自分のことも分からないのに、どうして他人のことが分かるでしょう。
そんなこと教わってきていません。
十把一絡じっぱひとからげに行なうにはどうしたらいいのかだけを学んできたのです。

人のことが分かるとは……。

「人の役に立つ」=自分を幸せにする

人は脳のままです。
脳にある情報と違うことをすれば、それはすぐにトラブルを起こします。
実は、それは年齢と共に確実に分かってくるものです。
しかしあまりにもストレスが多い社会で生きていることで、何年経ってもそのことが分からなくなってしまっているのです。

自分は自分の脳のままなのです。
そんな自分の脳の情報を的確に読んで対応してくれるのなら、それは信用できます。
しかし、そんな技術を持っているはずはありません。
なぜなら本人が幸せでないことを見れば分かりますよ。
人の脳の情報が読めるのであれば、自分の脳の情報も読めるはずです。人は幸せになるために生きています。
なぜなら「幸せ100%でこの世に生を受けた」のですから。
だから生きながら幸せ100%を実現しようと、脳はそれに必要な情報を集めているのです。
それがスムーズにいってない時、いかない時、脳と身体の間でショートを起こすのです。
それが症状であり、放置することで病気へと移行するのです。
そんなことも知らない、分からない医療者が、どうして人の役に立てるでしょう。

「人の役に立ちたい」と思うのであれば、まず求めている人の脳の情報が読めるようになることです。
そんなことを繰り返し繰り返し行なっていることで、自分の脳の情報も読めるようになり、人の役に立つということは自分を幸せにすることなのだと分かるようになるのです。