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私は1947年京都に生まれ、小学6年生の時、国籍差別による壮絶ないじめに遭い、自殺を図るも生き残りました。
その後の人生は「自分の存在する意味・理由・必要とは何か」「人が幸せに生きるにはどうしたらいいのか」をひたむきに求め、人生のすべてをかけて探求してきました。

そんな私の人生を通して掴んだ答え、それが「CW Happiness Philosophy」です。

入水自殺を図るが生き残る

私の両親は、太平洋戦争後に韓国から日本に渡ってきた韓国人で、私は在日韓国人2世として1947年京都に生まれました。
幼い頃の私は、何不自由なく健やかに育っていました。

そんな私が12歳の時、突然、引っ越しをきっかけにいじめに遭いました。
それはクラスメイト全員はおろか、教師も加担したなものでした。
当時の私は、同級生と同じように日本で生まれ、日本で育ちましたから、自分が外国人であるという意識をほとんどもっていませんでした。
そのため、何故自分がいじめられるのかまったく理解できませんでした。

いじめに耐えかねた私は、琵琶湖に入水自殺を図りました。

しかし、死にませんでした……。

生き残った私は、「何故、自分が生き残ったのか」そして、「何のためにこれから生きていくのか」「自分が生まれてきた意味、理由、必要は何か」について深く考えるようになり「それを掴まなければ自分が生き残った意味がない」と強く思うようになりました。

この出来事がなければ、「CW Happiness Philosophy」は掴むことは出来なかったし、「CW Happiness Philosophy」メソッドを開発することも出来なかったと思います。

日本国内を放浪、姪の知的障害をきっかけに医療の道へ

私は生き残った意味を掴むために海外に出ようと考えていました。
カナダかオーストラリアと決めていました。
そこで、高校を卒業した19歳の時に大使館に行きました。
しかし、私のその希望は叶いませんでした。
私は高校在学中、そして卒業後もかなり積極的に韓国の軍事政権反対運動に参加していました。
当時、韓国と日本は協定を結んでいて、軍事政権反対運動をした人間にはスムーズにパスポートを出さないという暗黙の了解があり、パスポートを取るにはさらに複雑な手続きが必要でした。
そういうこともあり、結局海外に出ることを諦めざるを得ませんでした。

そこで、海外に出る替わりに日本国内を放浪することにしたのです。
「30歳までに100の地域で100の仕事をする」という目標を掲げてのスタートでした。
現在日本全国120か所に住み、100以上の仕事をしてきました。

そんな旅の途中25歳の時、私の姉の娘、姪が知的障がいだということが分かりました。
彼女が2歳の時です。
両親は娘の障がいを受け入れられないようで認めようとしませんでした。
そこで私は「何とかしなければならない」という思いから、いろいろな情報を集めました。
それが、私が医療と関わるきっかけの一つとなったのです。
そして、私は鍼灸学校に入学しました。

経済活動が出来ない人は「障がい者」なのか

しかし、3年間の鍼灸学校での勉強は、ほとんど治療には役に立ちませんでした。
国家試験を取るための形式的な勉強であって、治療に役に立つような勉強はほとんどありませんでした。
だから、在学中からいろいろな療法を学びました。
それが今も役に立っています。

いろいろな技術を学ぶ中で、姪に治療を試みました。
しかし、それらは違っていました。
姪は病気ではなかったのです。
生まれながら個性の強い子供だったのです。

経済活動ができない人間を障がい者として扱う国はいくつもあります。
日本もそういう国です。
姪には生産性はありません。
普通の会話も普通の生活も一人ではできません。
でも、体は元気に動き回ります。
そんな姪を病気であると特定して、治療をしようとした私は間違っていたのです。
それまで私がもっていた医学情報はそういう障がい者を病人として扱うという一般常識の範疇だったのです。

姪のような人たちは世の中にたくさんいます。
後天的に障がいを受け、車椅子生活をしている人も大勢います。
そういう障がいをもっている人達は、いったいどのように生きていけばいいのでしょう。

全てに存在する意味、理由、必要がある

私もいじめにあって死に損なった、いわば、精神的に障がいをもっている人間と見なされるかもしれません。
生産性のある人間しか人間として認めないという経済社会にあっては、はぐれ者です。
家族や周辺の人、また周りの人達が協力しない限り人生を全うすることができないという人達はいっぱいいます。

しかし、そんな人達も、意味があり、理由があり、必要があって生まれてきたのです。
彼らにも幸せに生きる権利はあります。
そんな姪が幸せに生きていくために必要なことは、病気・症状を良くするための取り組みではなく、社会を変える、地域を変える、周囲を変えていく活動です。本当に必要なのは、そういう活動なのだということに気づいたのです。

そこで、私はそういう活動に協力してくれる人を探そうと、セミナーを開催しようと考えたのです。
少なくともそういう人達に対して理解を示すのは医療者じゃないか、あるいはセラピストじゃないか、と考えたからです。

28歳の時、医療者を対象にセミナーをスタートしました。
私が取り組みたいのは、現代医学・現代医療で良くならない難治な病気・症状でしたから、セミナーを受講する全国の受講者に、「皆さんが治せない病気や症状の人がいれば紹介してください」と呼び掛け、協力を仰ぎました。

そんな経緯でどこに行っても良くならないという病気・症状の人に対する取り組みを始めたのです。
その取り組みをすることによって、病気・症状に対する考え方はさらに独自なものとなっていきました。