自分らしく生きるためのアイディアを提供します

読脳マガジン

評価社会の中で自分はどんな人間になったのか-主体的になれない理由

投稿日:

「納得できる生き方がしたい」
「自分の人生の目標を見つけたい」
「夢や希望を持って生きたい」
「自分らしい生き方がしたい」

そんな思いを持っているけれど、どうすればそれを達成できるのか分らない、という人は多いと思います。

伊東聖鎬は40年前から、そんな人達のために、それぞれの目的を実現するための実践の場を創り、指導や協力を行ってきました。
それを「空間塾」と言っています。

自分が生まれ育った社会システムの影響を受け、義務教育を受ける中、従順な労働者になるべく教育され、自分の可能性や主体性を無くし、自分らしい生き方を見失ってしまった…。
空間塾に集まった人達はそれに気付き、自分の可能性や主体性を育て、自分らしい生き方を取り戻そうとしているのです。

「空間塾」は、そんな自分育ての場、いわば大人のフリースクールです。
教科書もマニュアルもなく、同じ目的をもつ者同士、切磋琢磨する中で、あるいは伊東聖鎬とコミュニケーションする中で、自分らしさを取り戻していくのです。

しかし、せっかくそんな場にいながら「どうしても主体的になれない。なぜそうなのか、どうすればいいのか」と悩むスタッフ達。
それをテーマにコミュニケーションした話を紹介します。

 

伊東
サラリーマンとして、何年、何十年か過ごす中で、そんな主体性を失ってしまったのであれば、それを切り替えればいい。
なのに、それができないのは、社会人になるもっと以前、義務教育の過程ですでにそうなっていたんです。

今行われている義務教育は、主体性を持たず、自分を主張せず、お上の言うことに素直に従うようにという教育です。
言わば奴隷となるための教育ですよ。

僕はそれに中学生の時に気付き、そこから抜け出す生き方をしなければと考えました。
そして結局アウトローとして生きてきました。

そんな僕から見ると皆がやっていることが理解できない。
どうしてスタッフ同士でもっとコミュニケーションしないの?

 

この問いに、スタッフの一人が「自分は人間不信というものをもっているようで、そのためにコミュニケーションができないのではないか」と答えました。
そこから話が展開していきました。

 

自分と向き合うということを、これまで浅い部分でしかしてこなかったと思うのです。
「なんで自分がそういう風に考えるのか」とか「なんでそう思ってしまうのか」ということを自分に問うことも、考えることもしてこなかった…。
「こういうことを言ったら怒られるんじゃないか」とか、勝手に決めつけてしまって、自分がますます小さくなっていってしまうんですよね。

 

伊東
評価社会の影響だよね。
評価を気にして、評価を下げないように振る舞うように、人の目を気にするように育てられている。

例えば、学校の先生から「内申書が悪くなるよ」と脅かされる。
学校の先生はどうしたら皆が言う事を聞くのかを考えているから、学校の先生の切り札は「内申書」。

親は「家から追い出すぞ! 」「飯を食わせないぞ! 」が切り札。

そうやって周りの大人は、子供を脅かしてきた。

それによって、おとなしくなり、友達同士でも評価を下げないように、問題を起こさないように付き合っている。
みんなお互いに内申書を下げないようにピリピリしている。
そして、先生に気を使う。

自分がそういう人だということを、皆は知っていた?
考えたことがあった?

 

自分はそうだと思います。

 

あまり意識したことはありませんが、そういうところがないわけではないと思います。

 

私は、親から何か言われたりしても、自分で自分のことをおかしいと感じることの方がおかしいから、そのまま従うことはしてこなかった。
学校の成績も良かったと思ったことはないけど、仲間外れにはあったことがあります。
出る杭は打たれるじゃないですけど、目立ってしまうといじめられるから、出ないように出ないように自然とそうなっていたと思います。

 

伊東
はっきりと意識はしていなくても、結果的にそういう風になるような空気がすでにずっと以前からできあがっているんだよね。
そんなできあがっている空気の中に入っていくわけだから、自然にふるまっていたらそうなるよ。
そして、いじめとか仲間はずれにされたとかの経験があったりして、悩んだ人は考えるわけですよ。
1歩踏み外したりすると問題が起こるから、大人しくしていなきゃいけない。
それでますます、人は壁にぶつからないように生きていく。

80パーセント90パーセントの人間がそうです。
僕の年代が既にそういう教育制度の中で育ってきたから、戦後2~5年、70代くらいの人まではみんなそうだと思う。
個人を育てる理由がない教育の中で、全て平等に社会は進んで来た。

平均化しようとしたアメリカ社会を、日本に持ち込それまではそうじゃなかったんだ。
だから個人がズバ抜けることを、あまり由と考えてなかったと思うよね。

そんな社会の中で過ごし、僕のやっている場にに来て、戸惑った?

 

ここ(CW本部)に来て、“君は分かっていない”とよく言われるんですけど、素直に受け入れればいいんですけど、何が分かっていないのか、聞けば良かったんですけど………、反抗的になって。

 

伊東
僕がみんなに感じるのは、間違いなく“抵抗”があるよね。
分かっていないから「分かっていない」って言っているのに、なんで抵抗するのか。
何が分からないのか聞いて、改める必要があれば改めればいいのに。
なのに抵抗する。

中学の時、僕も親父に散々言われたんだよね。
その時は僕も反抗したよね。

でも高校の時はそうはしなかった。
中学卒業後、家を出て、色んな経験をしていく中で、それをやっちゃまずいと気付いた。

それからは、自分から聞くようになったんだよね。
「どうしたらいいわけ? 言って欲しい」って。
それは、勉強になりましたよ。
僕は高校時代ではもう切り替えたけど、多くの人は社会人になってからそれをやる。
多くの人はようするに、僕にしてみたら中学生レベルだよね。
僕の中学生時代をやっている。
世間一般が僕の中学生レベルなんだよね。

 

そういうところを、そのまま受け入れると都合が悪いっていうのがあるんだと思うんです。

 

伊東
それが僕には分からない。
その発想が知りたい。

 

僕も、今思いついたことなんですけど、都合が悪いっていうのは、それは損得の部分なんだと思うのですよ。
そして、恐らく、経済という観念からきている考えなんじゃないのかと。

 

伊東
ここ(CW)では経済に繋がるようなものってあるわけ?

 

以前に自己評価をやって、自分たちで報酬を決めていた時、「○○をしたから」という評価の出し方をしていたと思います。
「何をしたの? 」と聞かれ「○○をした、△△をした。だから報酬はこれくらいではないか」という出し方をしていたと思うのですけど。

 

伊東
経済に繋がったら評価して、経済に繋がっていなかったら評価しないっていうやり方をするわけ?
ここ(CW)はそういうやり方はやっていないよね。
君が僕の考えていることが理解できていないだけで、普通に考えたらそうだからそう考えていた、っていうのじゃないのかな?

 

そうだと思います。
ただ、どう考えていいのか分からなかった。というのが大きいですね。
例えば自己評価の査定についても、僕は査定される人間で、査定する側の人間がいる。
そういう違いというか隔たりを感じたことはありますね。
だから、僕の中でそんな立場が出来上がってしまって、コミュニケーションをとるにも一線を引いていたところがあるのかな……。

 

伊東
決して人は上手な生き方ができる訳ではないですよ。
上手な生き方ができるには、「自分がどう生きたいのか」「自分が何をやりたいのか」というのを持っているということが基本ですよ。

それを持っていない人は、上手な生き方も下手な生き方もないですよ。
自分の生き方というものがスムーズにできるということにおいて、上手くやってる、上手くやれてない、という言い方はある。

自分のそういうものが在った上でどう生きるのか?
どう考えればいいのか?
査定する、査定されるということを、自分はどう捉えたらいいのか?
自分のやりたいこと、目標があって、この問題はどういう位置付けなのか?
等を考える中で自己評価ができる。

それがなければできない。
自分のもっている不満が、自分がやろうとしていることにおいての不満なのか。
自分のやろうとしていることが無い中で、問題が起こっても、それは我慢するか、お互いに不満をぶつけ合うしか無いよね。

池の中に居る自分。
波が立ったから、ということでしかなく、波が収まればそれまで。
池の中から外に出ることはない。
そのままつじつま合わせをしていれば、淀んでくるし腐ってくる。
自分の不満というのは、自分のやりたいことにおいての不満か?
腐る上においてのただの不満か?
これはどんな場においても問われることだよ。

自分に「こんな生き方がしたい」「こう生なければいけない」という目的が持てない中で、学校では評価されてしまう。
内申書という形で縛られてしまっている。

みんな学校の通信簿を気にしたわけでしょ?
なんで気にするわけ?
中学は高校受験があるからまだしもわかるけど、小学校で気にするのはなんで?

 

私は恵まれていたせいか、実際そんなに努力をしなくても、そこそこの成績をとれちゃうから、興味はなかった。
ダメダメであれば頑張らなきゃとか思えたと思うんですけど、そういう風に思えたことがなかった。

 

伊東
そういう意味では勉強できた人は気の毒な人だよね。
僕はできなかったから、本当に恵まれたよね。
「勉強しろ」と言われても、勉強する理由が分からない。
どう勉強するわけ?
覚えるわけ?
なんで覚えるわけ?
覚える理由もない。

 

実は学校のテストって法則でできていて、法則が分かってしまえば、勉強しなくても点数とれちゃうんですよ。
それが分かっちゃったから、努力することをしなくなったんです。
すごく不幸だなぁって思うようになりました。

 

伊東
僕はそのシステムが分からなかった。
君は学校の勉強でそういう風に分かった。

僕は今は、社会の構図がそういう形で分かる。
人間関係や色々なことがそういう意味で分かる。
それを多くの人間は分からない。
どこで違ったのか……。

「分からないから、分かるために努力しよう! 何が分からないのか? どこが分からないのか? どういう理由で分からないのか?」
それを、自分で知らなきゃいけなかった。

人よりも何倍も時間をかけた。
今は分かっている人間になった。
みんなは分かっているからやらなかった。
分かっているから成績もよく、学校にも行き、そのまま会社勤めした。

にもかかわらず結果的に、分からないでいる。

そんなことが理由で、起こっていることじゃないかな。

だから健康でいること、病気がないこと、成績がいいこと、みんなまずいことだよね。
でも成績悪い人間がチャンスがあるかというとそんなことないですよ。
はるかにチャンスはないですよ。
そんなチャンスがないところから這い上がってくる。

その為には1つ、2つ、3つも4つも別のプレッサーがないとできないですよ。

大旨、勉強のできる人間、早くから分かっていた人間は努力しない。
ある程度までできれば、そのライン上にのって評価されてしまう。
国家資格や免許を持っている人間も一緒。
資格さえ取れれば、あとはずっとOK。
そうではなく、常にチェックして欲しいよね。
そうすれば、努力し続けることができるのに。

僕は努力しなきゃいけない理由を持っている人間。
努力し続けなければいけないという環境を、自分で作ったんです。
それが自分が生きていくことの意味だから。
一生懸命努力して生きていくことが、評価の対象なんです。

そして、そんな生き方こそが、自由なんだと考えているんです。

 

 

Copyright© 読脳マガジン , 2019 All Rights Reserved Powered by AFFINGER5.